哲学・論理・・・風まかせ

2封筒のパラドックス(1)

最近、三浦俊彦氏の掲示板にまた書き込みを始めてからほぼ一月が経過した。三浦氏の最近の著書にある2封筒のパラドックスに関連して、論争を続けているのだが、一致点もあるが結構な激論が続いている。誤解と思われる部分もある。一つには、私の見解が三浦氏のものとかなり離れてきており、それを断片的に小出しにしているから分かりにくいこともある。
そこで、このあたりで自分の見解をまとめてみようと思う。

まず、2封筒のパラドックスについて、D.ChalmersのWeb論文"The Two-Envelope Paradox:The Complete Analysis"から該当部分を引用する。三浦氏の著書を引用した方が多くの人が読んでいるので親切かもしれないが、議論の相手なのでニュートラルな方が良いだろうと思ったので。

A wealthy eccentric places two envelopes in front of you. She tells you that both envelopes contain money, and that one contains twice as much as the other, but she does not tell you which is which. You are allowed to choose one envelope, and to keep all the money you find inside.

This may seem innocuous, but it generates an apparent paradox. Say that you choose envelope 1, and it contains $100. In evaluating your decision, you reason that there is a 50% chance that envelope 2 contains $200, and a 50% chance that it contains $50. In retrospect, you reason, you should have taken envelope 2, as its expected value is $125. If your sponsor offered you the chance to change your decision now, it seems that you should do so. Now, this reasoning is independent of the actual amount in envelope 1, and in fact can be carried out in advance of opening the envelope; it follows that whatever envelope 1 contains, it would be better to choose envelope 2. But the situation with respect to the two envelopes is symmetrical, so the same reasoning tells you that whatever envelope 2 contains, you would do better to choose envelope 1. This seems contradictory. What has gone wrong?

試訳:物好きな金持ちがあなたの前に2つの封筒を置く。彼女はあなたに、どちらの封筒にもお金が入っていて、一方の封筒には他方の2倍入っていると言う。しかし、どちらがどちらとは教えてくれない。あなたは一つの封筒を選んで、その中のお金をもらうことができる。

これは何も問題ないように見えるが、明らかなパラドックスを生んでしまう。封筒1を選んだとし、その中には100ドル入っていたとせよ。その決断を評価するため、あなたははこう考える:封筒2には50%の可能性で200ドル入っていて、また50%の可能性で50ドル入っている。振り返ってみると、封筒2を選ぶべきだったとあなたは結論付ける、なぜなら期待値は125ドルだから。もし、スポンサーがあなたの決断を変えるチャンスを、今、提供したなら、あなたはそうすべきであるように見える。さて、この考察は封筒1に入っている実際の金額とは無関係に、開封に従って進行する。したがって封筒1にいくら入っていたにせよ、封筒2を選んだほうがよいだろう。しかし、状況は2つの封筒に関して対称であり、同じ理由で封筒2にいくら入っていたにせよ、封筒1を選んだほうがよい。これは矛盾である。どこが悪いのだろう。

Chalmersはホフスタッターから1988年に2封筒問題を聞いて、その後書いた、雑誌には未発表の論文とのことである。

さて、この問題を考察するのにChalmersは、第1ステップとして、2つの封筒はどこかから降ってきたわけではないから、ある確率分布から導出されたものでなければならないと主張し、論文で引用されている、雑誌Analysysに出版された他の著者の2つの論文でもそう仮定していると述べている。

三浦氏は著書でこの見方に強く反対され、そのような分布を考える必要はないと言われているように見える。私もそれには一応賛成なので、その路線に従って考えてみる。Chalmersらとは第1歩から異なるわけである。

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# by mathpl | 2015-12-05 12:44

2封筒問題(19

久しぶりに、三浦俊彦氏の掲示板に書き込みを再開して
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# by mathpl | 2015-12-05 11:03

西洋哲学における因果性(1)

ずいぶん更新をさぼってしまいました。
書くべきことがいろいろありますが、最近、インド哲学に興味が出てきました。
動機は、石飛道子氏、宮元啓一氏、梶山雄一氏、桂紹隆氏の本を何冊か読んだことにあります。私としてはそれと西洋哲学、特に分析哲学との接点を考えたいわけですが、石飛氏の本には、インド哲学、特にブッダや龍樹においては「因果性」が本質的だと書いてあります。
そこで、西洋哲学における「因果性」に関する文献をあげておきます。これは石飛道子氏の「マニカナホームページ」の「論理学教室」に書き込んだものと本質的に同じです。文章などは多少訂正してありますが・・

・因果性 ブンゲ著 黒崎宏訳 岩波書店
ずいぶん昔(1972年)に出た本です。手元にあるのは2000年に再版されたものですが、内容の変更はないはずです。

・Causation, Oxford readings in philosophy,Oxford Univwersity Press
因果性に関する比較的最近の著名な論文(15編)を集めた論文集です。論理学、可能世界、確率論などさまざまな角度から因果性が論じられています。

・定性推論の諸相 西川豊明著 朝倉AIらいぶらり 朝倉書店
人工知能関係で論理を使うときには、時間や因果関係を扱っているのは珍しくないですが、この本には特に「因果解析」という章があるのであげておきます。また、 「定性物理学」などあまり聞いたことのない面白そうなテーマも述べられています。

・日常言語の推論 塚原茂著 東京大学出版会
条件法「ならば」についてのみ書かれた一冊の本です。著者は言語学者だということですが、認知科学に関するシリーズ本の一冊です。

・原因と結果の迷宮 一ノ瀬正樹著 勁草書房
ヒューム因果論の現代的発展。著者独自の理論がメインですが、最近の因果論の紹介や充実した文献表もあります。

・Counterfactual David Lewis著 blackwell(日本語訳 反事実条件法 勁草書房)
反事実条件文を可能世界実在論で解析しています 。かなり記号が多く、数学の本のように見える部分もあります。

・Causality models,reasoning, and inference J.Pearl著 、Cambridge
因果の確率的数学理論のようですがまだ読んでないのでわかりません。

・The Oxford handbook of metaphysics, Oxford
現代の分析的形而上学のサーベイです。
ch12:Events
ch13:Causation and supervenience
ch14:Causation in a physical world
が関係すると思われます。

これから、読んだことを少しづつ書き込んでいこうと思います

2015年12月5日追記
結局どれもちゃんと読んでいないのですが、追記

・J.pearlの本は和訳が出ました
統計的因果推論-モデル・推論・推測, 黒木学訳, 共立出版2009年

・Oxfordからは因果性に特化したハンドブック
The Oxford Handbook of Causation
が出版されました。約800ページあり、因果性というのが現代英米哲学中かなり大きな分野であることが推察できます。
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# by mathpl | 2008-02-15 01:17 | 因果性

図で表すと・・・

前回のノートですが、TeXで書いていたら、ついつい式が多くなってわかりにくくなってしまったかもしれないので、図で考えることにします。いずれ本当の図(!)をアップすることにし、今回は説明のみ。

厚さ1ミリ、一辺が10cmの正方形のガラス板を考え、これを一つの可能世界とみなして、そこに
脳のような複雑系である(B)を青で、意識である(C)を赤で、B&Cを紫で彩色することにします。表面だけでなく中まで色が透っていると思ってください。また、彩色してない部分は脳でも意識でもない存在者をあらわします。2種類の可能世界

L:下辺に平行に高さ5cmのところに紫の横線を幅1mmで引く
K:Lと同じ場所に赤い横線を引き、さらに幅1mmの青い縦線を真中に引き、共通部分(一辺が1mmの正方形を紫に変える。

を考えます。

すると
各可能世界では確率は面積比で表されると考えると、どちらの場合もP(B|w)=1/100であり、LにおいてはC→B、KにおいてはP(B&C)=P(B)・P(C)=1/10000となっている。これを適当な比率で机の上などに100枚重ねると、一辺が10cmのガラスの立方体ができ、その中の領域の体積が全空間における確率をあらわす。P(B)=1/100になることに注意。たとえば、底面から50枚はL、その上に50枚のKを重ねるとP(K)=P(L)=1/2となる。

すると、紫の領域(B&C)は、底面に垂直な高さ5センチ、幅10センチ、厚さ1mmの長方形(直方体)の上辺に、縦横1mm、高さ5センチの四角柱を立てたものになります。半々でなく、どんな比率でLとKを重ねても、前提を破らないことがわかるでしょう。また、LとKの枚数比(事前確率)とそれに属する紫の部分の面積比(事後確率)は、後者が100倍になっています。

このモデルの問題点は、Cでない場合、異なる可能世界における同一性をどう定義するかと言うことです。たとえば、Kにおける青い縦線(複雑系)の部分は中心部を除いてLにおいてそうでないことになります。たとえば、世界Kにおけるスーパーコンピュータが世界Lでは複雑でないもの、たとえばボールペンになるのでしょうか?これはナンセンスなので、間に合わせですが、世界Lのガラス板にも、Kと同じ青い縦線を付け加え、意識でない存在者の場合は、物理的に同一性を定義します。この変更によって、Lの可能世界におけるBの確率は2倍になりますが、もともと小さかったので、やはり前提を満たすと考えてよいでしょう。
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# by mathpl | 2006-03-22 22:09 | 人間原理と確率

また別の話題です

最近、前にも述べた哲学者の三浦俊彦氏の掲示板で議論になっていることを書いたので、アップロードしておきます。
そちらを見ていない人のために、最小限の説明を書くとを書くと、三浦氏の論文
  自然選択説のよる不自然な自然選択(現代思想2006年2月号:三浦氏のホームページにPDFファイルあり)

のなかに、

「F** 私では、意識は、脳と言う複雑な組織に依存している。コペルニクス原理によれば、私は特別な場所ではないはず。よって、意識が複雑な物質にもとづいているのは私においてだけとは考えにくく、宇宙の他の場所でも同様に意識は物質の複雑系組織によってのみ生まれると考えるべきである。」(第6節)

という命題があり、

「補助前提として、「複雑に組織された物質は、生成が難しく、生じる確率が低い」と言う命題が必要だ」

とあって、その後に確率的論証がなされています。このことのより詳しい論証をめぐって、3月はじめころから掲示板で議論が続いています。

このままでは読みにくいと思うので、読みたいと思う方は、ファイルに保存して適当なビューアー(Windows Media Playerなど)でご覧ください。gifファイルになっています。ビューアーでなくてもクリックすれば読めることに気づきましたが、解像度を上げるつもりで大きなファイルにしてあるので今度は文字が大きくすぎてやはり読みにくい・・・
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# by mathpl | 2006-03-19 05:14 | 人間原理と確率

シミュレーション・・その2

まず、予備的考察から

デネットが何と言っているかというと、まず、外界のシミュレーションは”組み合わせ的爆発”を引き起こすだろうということである。

われわれは日常生活において、意識的あるいは無意識に大量の選択をしている。今起きようかどうしようか、歯を磨く前にトイレに行こうか、朝食は自分で作るか立ち食いそばですますか・・・など、数え切れないほどの選択を行っている。もし、シミュレーションが、全視界的、音声、皮膚感覚、匂い・・・つきの映像のようなものとすると、そのすべての選択に対応する映像をすべて準備しなければならない。例えば2択が1000回あったとすると、それに対応すべき映像は2^1000個、一方、宇宙のすべての素粒子の数は10の数10乗のオーダーとされている。あきらかにそのようなメモリーが宇宙内に実在することは不可能である・・・・

と書いたら、三浦氏から反論があり、囲碁、将棋のソフトが実在するのはなぜか?つまり囲碁、将棋ではこちらが選択する手は数手以上あるけれど、それに対してソフトは数百手でもちゃんと対応する・・・と言われてしまった。これは私の自明なミスなのだが、シミュレーションに関して重要な区別に関連するので、詳しく述べておこう。

まず、ゲーム世界(囲碁、将棋など)では、その世界を完全に支配する法則(ルール)が、明文化されており、しかもそれが非常に簡単なことに注意しよう。ここで、法則と言うのは”勝つ”法則のことではない。そんなものはプロ棋士でも完全には知らないであろう。それは、こまの動かし方、王を取られたら負け、後、2歩、千日手などに関するもので、ようするにゲームのルールのことである。これさえ満足するプログラムであれば、いくらヘボでもとにかく将棋の正当な相手として通用する。だから外界というのがそのゲームだけであれば、延々とゲームを続けていても脳の側では決してシミュレーションと見抜けないわけである。(その上に、もちろん現実の将棋のソフトはちょっとしたアマチュアよりは強いようなのでなおさらのことである)

このことは、ある場合には、選択肢に対応する映像をすべて準備するいう単純なシミュレーションよりもはるかに優れた方法が存在するということである。つまり

(1)外界を支配する法則が完全に知られている
(2)それらをプログラムするのが可能である
(3)プログラムは現実的な時間内で実行できる

の3つの条件が満たされていれば、脳への入力をその都度、計算でき、それは現実世界からのものと変わることはないので、決して見破られることはない、完全なシミュレーションができることになる。ここで、(2)と(3)の区別は、情報科学を少し学んだ人ならわかると思うが、巡回セールスマン問題や素因数分解問題などに対する”素朴な”アルゴリズムはごく簡単にプログラムできるのだが、少し大きな問題になるとたちまち”100億年でも終了しない”プロセスになってしまうことから、必要である。

ふりかえって、現実世界のシミュレーションの場合を考えると、まず、(1)はいわゆる万物理論であって、現在のところ、まだその先が見えていないようである、といってははじめから不可能と言うことになってしまうので、とりあえず古典物理学的世界像を仮定して、(2)、(3)を検討していこうと思う。ただ、ここで一言注意するといわゆるカオスによる予測不可能性は、ここでは余り問題にならないだろうと言うこと。天気予報などで、数日先の天気が完全には予測不可能と言われるが、シミュレートされた天気は何日先でもとにかく現実の天気らしいものになるのであって、”ありえない天気”が生成される訳ではないであろうから。それは、よく引用される代表的なカオティックな系では長時間が経過した状態(ストレンジアトラクタ)は有界な範囲にとどまっていて、その上のどの状態にあるかはわからなくても、非現実的な状態にはならないということからわかる。(実際の詳細はよく知らないので、いいかげんなことを言っているのかもしれません。方程式によっては、初期値が少し違えば、1年後に風速500メートルの台風がくると言うシミュレーションになるのかも)
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# by mathpl | 2006-02-02 01:15 | シミュレーション論法

久しぶりに・・・突如、シミュレーション世界の話

かなり間があいてしまった、まあ、昔から日記は続いたことがないので・・・

カントールの実数論を書き始めたら結構な分量になりそうだし、気が抜けてしまったので、しばらくお休み、というのも無責任なので、実数論について本棚の奥から出てきた本を一つだけあげておく:

小松勇作著 無理数と極限 共立全書

これはかなり古い本なので、本屋さんには多分売っていません(笑)ただ、解析概論などと違ってカントールに近い方法で有理数から実数の構成をしています。

考えてみると今まで、数学そのものの話ばかりで哲学にはならなかったのですが、最近、数学ではないけど興味を持っていることがあるので、それを書きます。

最近、三浦俊彦氏の掲示板にハンドル名εで出没しているのですが、そこで話題になったシミュレーション世界の話についてここにまとめておきます。

しばらく前に話題になった映画”マトリックス”では、近未来の世界において、人間は培養槽の中で一生を送り、彼らの見ている世界は脳に直結されたスーパーコンピュータの作り出したシミュレーション世界であるという設定。このような設定はSFなどによく出てきて、ホラー小説”リング”でも基本的な役割を果たしていた。これらの話では、主人公達は最初、シミュレーション世界が現実だと錯覚しているのだが、現実にはありえないような超自然現象が起こることからストーリーが動き出す。シミュレーション世界では何が起こっても不思議はないので、これらは単なるファンタジーとなるのを免れている、というわけである。三浦氏は、最近、今のこの現実がシミュレーションである可能性を本気で検討され、その可能性はかなり高いと主張されている。

一方、一人と多数の違いはあるが、このような状況は独我論の”容器の中の脳”としてデカルト以来哲学でよく話題になり、少し考えればわかるように、不可能であるとはいえないということになっている。ところが、哲学者ダニエル・デネットは著書Consciousness Explained(和訳
解明される意識 青土社)の冒頭で、そういう可能性はまずありえないという説得的な(と私には思われる)議論を提出している。一言で言うとシミュレーションに必要な計算資源--計算速度および記憶容量--が大きくなりすぎる、ということによるものである。

これはデネットの本の主題ではないので、軽く触れられているに過ぎないが、考えてみると結構面白い話題なので、デネットの考えに従いつつ、他の論点も加えてしばらく続けてみようと思う。
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# by mathpl | 2006-02-01 04:24 | シミュレーション論法

実数論について少し・・


しばらく前から、三浦俊彦氏のBBSに中高年数学者というハンドル名で参加している。三浦氏に
ここに来ていただいたようで、また、おおむね同意していただいたようで感謝!!

さて、前回の①、②は、0.99・・・のような小数を論じるには十分であるとはいえ、一般的には問題がないわけではない。たとえば、自然対数の底e=2.7182・・・に対して

e=1+1+1/(2!)+1/(3!)+・・・・、ただしn!=1・2・・・・n (nの階乗)

と言う定義がある。といっても、右辺の意味は極限値をもつときにのみ意味があるのだから、たとえばε-δ法でそれを示そうとすると、その極限値eが必要になる。しかし、そもそもeを定義するのがわれわれの目的であった・・ということで循環論法に陥ってしまう。実は第1回目に書いた収束の定義は、無限級数とは独立に定まっている数を極限値として持つ場合にしか有効でない。
そこで、極限値によらず、数列や級数の各項だけから収束を定義する必要がある。それが
コーシーの条件と言われるものだ。

数列{a(n)}が収束する必要かつ十分条件は、任意に与えられた正の数εに対して、ある正の数Nがあり、整数n,mがともにNより大きいならば    
    |a(n)-a(m)|<ε
となること。

これは、第1回の定義とは独立な新しい定義だろうか?いやそうではないはずだ。実際、必要条件であることは簡単に証明できる。ところが十分条件を示すとき、つまり、この条件を満たせば
”ある数a”に収束するということを示すとき、その数とはどういうものだろうか?各項a(n)とaの関係は?というと上のeの場合と同じような循環論法に陥ってしまうのがわかるだろう。

実は、この十分条件は、実数の連続性を表す公理のひとつの表現なのだ。つまり

数列{a(n)}が、
任意に与えられた正の数εに対して、ある正の数Nがあり、整数n,mがともにNより大きいならば    
    |a(n)-a(m)|<ε
を満たすとき、基本列(あるいはコーシー列)といい、

基本列の収束  基本列はある実数aに収束する

を、解析学を展開する前提として要請する、というわけだ。連続性を表す公理には有名なものが4つあり、それらはすべて同値である。その中には有名なデデキンドの切断に関する公理もあるが、ここでは簡単に説明でき、使いやすいもの一つだけをあげておくだけにする。

単調有界数列の収束 {a(n)}が
①ある正の数Cがあり、すべてのa(n)はCより小さい
②a(1)≦a(2)≦a(3)≦・・・≦a(n)≦・・・
であるとき、ある数aに収束する

例題として、eを表す無限級数が収束することを、この公理に帰着することによってしめそう。
まず、部分和の数列は

{s(n)}={1,1+1,1+1+1/(2!),・・・}

であるから、②は、当然正しい。ここで

1/(n!)=1/(1・2・・・・n)<1/(2・・・・2)=1/(2^{n-1})であるから、

s(n)<1+1+1/2+・・+1/(2^{n-1})<1+1+1/2+1/4+・・・=3

であるから、C=3とおけば、①も正しい。よって無限級数 1+1/(2!)+1/(3!)+・・・が、ある実数に収束することが証明された。

注:ふつうはこの定義でなく、数列 {(1+1/n)^n}の極限値としてeを定義することが多い。ここで書いたより多少面倒であるが、同様に示される。

しかし、何か割り切れない気持ちが残らないだろうか、上の公理はどちらも何か証明すべきものをあらかじめ仮定しているような気がしないだろうか?そもそも実数とは何だろうか?

これらの疑問に答えるには、実数の構成に触れなければならないが、その話は次回
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# by mathpl | 2005-12-14 02:05 | 極限の概念

本題に戻る

さて、0.999・・・=1をきちんと証明しよう。文系の人向きに、しつこいくらい丁寧に書くつもりなので、解析の基礎をある程度知っている人は、適当にスルーして読んでください。というか、読む必要もないくらいの簡単なことなのですが(笑)

まず、前回の復習から
①無限小数の表す数は、無限級数の和である
②無限級数の和は、部分和のなす数列の極限値として定義される
これらは、定義、すなわち数学の約束事なので、気に入らなくても認めないことには話が進まない。

これによれば、0.999・・・の表す数は、無限級数 0.9+0.09+0.009+・・・
の和であり、a(n)=9/(10^n)と置いたときの部分列 {s(n)},
ただしs(n)=a(1)+・・・+a(n)=0.(9がn個), の極限値である。

さて、{s(n)}={0.9, 0.99, 0.999・・・}の極限値が1であることを、ε-δ法を使って証明しよう。ここでまた復習(記号を少し変える):

数列{s(n)}の極限値がsであるとは、任意に与えられた正の数εに対して、ある正の数Nを取ることができて、
     任意の自然数nがn>Nとなるならば、|s(n)-s|<ε
となることである。

さて、今の場合、s=1と置く。与えられた正の数εに対して、(10^N)>1/ε (すなわち 1/(10^N)<ε) となる自然数Nをひとつ固定すると、n>Nならば

     |s(n)-1|=1/(10^n)<1/(10^N)<ε

なので、ε-δ法によって{s(n)}の極限値が1であり、①、②を見れば、0.999・・・=1であることが証明された。

2ちゃんねるの議論では、実数の構成や超準解析にまで言及する人がいた。上の議論はこれだけで完結しており、それらとは独立であることはわかるだろう。ただ、実数の構成や超準解析は全然関係ない話でもないので、次回以降、私にわかる範囲でぼちぼち書いていくつもり。

ひとつ書き漏らしたことを追加する:

中には、1/3=0.333・・・は疑問視せず、
”0.999・・・は1に限りなく近いけれども異なる"と言う人もいるかもしれないが、それは論外。
それなら前者は当然
”0.333・・・は1/3に限りなく近いけれども異なる”
とでも言わなければならないはずだ。

ただ、こういう人たちの気持ちもある程度わかる。彼らは多分、無限小数としての表記とそれの表す数が一対一に対応していると暗黙のうちに認めており、それで0.999・・・と1.000・・・(=1)とは別の数と言っているのかもしれない。実際には、無限小数としての表記がそのまま数なのではなく、上に述べたように、一定の手続きを経て対応する数が作り出されるというのが現在の数学における考え方。2通りの表示は不便であるかもしれないが、矛盾ではない。
ついでにいうと、1だけでなく、実数(今の場合有理数だけを考えればよいが)を無限小数で表現するとき、2種類の表示があるための必要十分条件は、それが有限小数で表される(あるいは、同じことだが、分母が10の冪の分数で表される)ことである、ということが証明できる。
例えば、0.25=0.25000・・・=0.24999・・・ というような場合がそうだ。




  
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# by mathpl | 2005-12-11 18:13 | 極限の概念

”他者の声 実在の声”について

さっき、野矢氏の近著 ”他者の声 実在の声”を買ってきて、関連する場所をちょっと読んでみたので、無限級数の説明の前に枕として使わせていただくことにする。

85ページ、”際限のない有限”の冒頭に

 ”0.999・・・≠1”---私にはこれはトリヴィアルな事実と思われる。

とかいてある。これが、野矢氏の立場から見ても明らかな間違いであり、数学に対する誤解から生じたものであることを説明したい。その前の節で出てくる数学の先生が悪い先生であるのか、野矢氏が昔習ったことを忘れているのかのどちらかだろう。

まず、可能無限の立場からは、その意味はさておき、無限の記号列 0.999・・・などというものを数学的存在と認めるかと言うのが問題になるはずだが、次のページに、

”無限小数になる有理数も循環小数であるから、それは確定した手続きの際限なき反復として、容易に理解できる。”

と書いてあるのでそういうものとして認めるということなのだろう。あれ、そうすると1/3=0.333・・・は認めるのかな?そうしたら、両辺を3倍すると・・・・(笑)

で、このあたりから理解不能なところが出てくるので、最初の文の後を引用してみる:

”それは1に限りなく近づくが、1ではありえない。”

ここが一番の問題点だ。この、”それ”とは0.999・・・・のことであるのは間違いないだろう。ここは野矢氏の勝手な解釈であり、数学の立場ではない。いうまでもなく、0.999・・・と言う表記法の意味は誰もが勝手に決めていいものでなく、数学の中で定められているものだ。

まず、0.999・・・が無限級数 0.9+0.09+0.009+・・・であることはよいだろう。だから、無限級数の意味が問題だ。野矢氏は第7章のアキレスと亀のところを見ても、無限級数の意味を誤解しているようだ。

数列の極限はわかっても、無限級数になると誤解する人が多いのは確かで、直感的には無理もないところがある。数学でも、次に説明する意味が確定するまでにもすでに無限級数は使われていて、それが多くの矛盾をもたらしたので、(多分)19世紀の前半に改めて定義された。
(デュドネ編 数学史1700-1900 岩波書店 第2巻をみたら、コーシーのようだ)
今では、理系向きの高校数学(微分積分とか数学III)でも説明されている。

長くなったので、とりあえず定義だけを書いておく。
       ∞
無限級数  Σ a(n) は、部分和 s(n)=a(1)+・・・+a(n) から作られる数列 {s(n)}が
       n=1
収束するときにのみ和を持ち、その和は{s(n)}の極限値である。

これの適用は次回に書く
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# by mathpl | 2005-12-11 00:25 | 極限の概念